■ひとくさの葦




人間の脳の計算力は100テラフロップス程度だといわれている。
一秒間におよそ100兆回の計算が可能、という算段だ。

メモリは推定100テラバイト。

計算力でいえば極めて原始的なスーパーコンピュータに遥かに劣り、メモリでいっても、彼女の頭に埋め込まれているものと比べて、比較するのも悲しくなるほどの性能だといえた。

しかし、彼らの小さな頭には、無限の宇宙が内包されている。
それはきわめて詩的な感覚であり、かつての自分――ただ思考の真似事をする機械であった頃の自分――では到達し得なかった境地であろうと思う。
そのような感想を持つに至った彼女をもってしても、人間というもの、生命というものを理解する事はできなかった。

命なき人形よ、命を理解せよ。

命とは? 人間とは? 人工知能とは? 感情とは?

“我らを理解せよ 理解せよ 理解せよ―――”

……エラー。進捗なし。



………



午睡する主の寝室。気だるさを伴うような温い風を浴びる彼が不快に思わないように、イデアルは開け放たれた窓にかかっているレースカーテンを閉める。繊細な模様に細工された薄布が日の光と風を薄く遮り、毛足の長いじゅうたんにあるかなきかの影を落とした。
寝返りで少し乱れた掛け布団をそっと直し、イデアルはベッドの傍にある椅子に腰をおろす。
社会における彼は、役割を勤め上げ、引退した貴族階級の老人である。さして広くもない庭をもつ屋敷ひとつ残し、蓄えていた私財は全てある企業に寄付してしまった。
それ以降、彼を訪ねるものも少なく、むしろ彼は独りを好んでいるように感じられた。屋敷の中には彼と、彼に傍仕えするイデアル以外に人の姿は少ない。
書を読み、また書きもした。絵を好み、音楽を好み、何より夢を語るのを好んだ。
彼の話す夢の話に耳を傾けるのはイデアルの日課のようにいつしかなり、また彼が夢の話をするのもイデアルだけだ。
人間のような思考能力を持たないイデアルには理解できないような話が殆どだったが、彼はそれでもいいと言った。
イデアルは子供のように夢を語る彼の話を黙って聴き、その途中で幾つかの質問をした。
彼はそれに丁寧に答え、イデアルはそれを記憶した。
研究所で技術者達と暮らしている時より、イデアルの生活は実にシンプルになっていたが、不思議な事に、彼と暮らすようになって以降、イデアルの記憶領域は実に多くのものを記憶するようになっていた。

……そしてそれでもまだ、彼女は人間というものを理解するに至れてはいない。

「イデアル」
「……お目覚めですか」
「ものを想うアンドロイド、というのも絵になるものだな」
「少し、停止していたようです」

逡巡を払うようにして、イデアルは主を顧みた。主は横になったまま顔だけをイデアルに向け、薄い笑みを向けてくる。知らず、自らが窓際で暫しの時間ぼうっとしていたのだと、イデアルは理解した。
彼と暮らすようになり、彼の語る言葉を記憶するようになってから、不思議とこういう機能停止が起きるようになった。記憶野や人工知能の異常かとも考えられたが、主はそれはそのままにすべきだと彼女に言い、イデアルはそれを受け入れた。
イデアルが、己の使命である人間を理解するべく思考にパルスを巡らす時に時折起きるこのエラーは、人間の思い悩むという行動に酷く近いのだという。深く思考に入り込むことで、その他の情報を知らず遮断してしまう――並列処理能力の優れた知能を備えたイデアルにはよくわからない状態ではあったが、人間のそれを知らずに真似ているのかもしれない、とイデアルは結論づけていた。

「何か、お飲みになられますか」
「いや、いい。聞いてくれ。今見た、夢のはなしだ」
「わかりました」

ベッドに状態を起こした主と目線を合わせ、ベッドの傍にあった椅子に座り直す。主は薄く目を閉じ、思い出すように何かを思考しているようだった。

「星の海を旅する鯨の夢だった――」

イデアルもまた主に習い目を閉じ、彼を追う旅に出る。
人の夢、脳内の宇宙、それを追いきれない自分――。
人の如く思考できれば、人を理解できるだろうか?
人の如く思考できれば、彼の宇宙に、自分も飛び出していけるのだろうか?
例えば自分が人間であったとしたら、私に課せられたこの使命は、容易く果たす事ができるのだろうか。

幾万回顧みても、仮定を積み上げたとしても、それは到底答えになるとはいえないだろう。
自分はまだ、感情のない人工知能にすぎないのだ。
問いはやがて記憶領域を一巡りし、やがて何も導きださぬままどこへとも知れず集積されていく。
自分はできそこないなのかもしれない。
そういう仮定は少しずつイデアルの中に堆積されていき、少しずつ彼女の思考領域を狭めていくようだった。

イデアルは目を開け、主の顔を見る。穏やかな声で、彼は夢を語る。
彼の見た夢の鯨は何色をしていたろうか、とイデアルは思考した。



………



「イデアル。……イデアル」

名を呼ばれたのに気付いて、アレクサンドリートはふと意識を表層化させた。
かつて別れた主とのひとときを思い出すうち、知らずぼうっとしてしまっていたようだ。
宇宙艇エーデルシュタインの窓にはかつて過ごした地球とは違う、死の色をした宇宙が映し出されている。
普段皆が集まる船の中央ロビーは、普段の活気は見られない。現在が艦内時間で早朝ということもあるし、艦の主とも言える男が不在という事もある。
アレクサンドリートが振り返ると、自分を呼んだ男がソファに腰を下ろすのが丁度目に入った。イデアルは男に身体を向け、少しだけ会釈をするような仕草を見せた。

「翡翠様……翡翠、様。おはようございます」
「おはよう、イデアル。ベルンがいないから、船が少し寂しいね」
「ベルンシュタイン様――。ええ、ベルンシュタイン様は、今、お仕事で月にいらっしゃいます」
「そうだね。俺たちは留守番だ。でも、明日には戻るようだよ」
「そうですか。ベルンシュタイン様は、明日戻られるのですね」

そうだよ、と笑って、翡翠は少し伸びをする。昨夜も遅くまで仕事をしていたのだろうか。チームの調整役である彼に課せられる役目は小さくはない。

「お茶を……お茶をお淹れいたしましょうか」

ん、と翡翠はアレクサンドリートを見る。それからああ、と柔らかく笑って、ありがとう、と言った。

「嬉しいな。ちょうど目を覚ましたかったんだ」
「では、珈琲にしましょうか。でも、翡翠様はお茶のほうがお好みでしたでしょうか。ええと、ええと――」
「お茶だと嬉しいかな。今日は、そういう気分」

考える能力に秀でていても、決断するのが苦手。生来のアレクサンドリートの性格を汲んで、翡翠はあっさりと決めてみせる。そういう気の使い方をさせてしまう自分を、アレクサンドリートは少し恥じた。

「お茶……淹れます。おいしく淹れます」
「うん、ありがとう」

手元の端末で今日のニュースを確認しはじめた翡翠に背を向け、アレクサンドリートはロビーの隣に備えられた部屋に向かう。お茶などボタン一つで、しかも人が淹れるのとかわらないものが提供できる。しかし翡翠達は、アレクサンドリートがわざわざ淹れたものが好きと言ってくれた。観察を使命と定め、彼らと一定の距離を置くべきと認識しているアレクサンドリートを持ってして、この船の居心地は悪くなかった。主のもとを離れ、自我を得た時に知った寂しさも、彼らに知らず埋められていたのかもしれない。
ベルンシュタインは寡黙に見せて内面は情に厚い男であること。チームの新参である自分に、翡翠が細やかに気を使ってくれること。
アメテュストがベルンを強く想っていること。そういう感覚が、人間の真似事などではなく、実際に機械種が共有できるということ。
それら様々な出来事が、アレクサンドリートの記憶領域に堆積されていくにつれ、次第に彼らを好んでいる自分にも気付き始めた。
彼らを観察するのが使命。それは間違いのない真実だ。しかし、それだけではないのかもしれない。
変化している、と思った。不変なはずの機械である彼らが、いやアレクサンドリート自身も含めてだ。

端末を睨んで、何かしらを考えている風の翡翠の邪魔をしないように静かにカップを置いて、アレクサンドリートはロビーを離れた。特に仕事があるわけではない。しかし、この船で皆が快適に暮らせるように少しでも何かができればと、アレクサンドリートは細々とした仕事を探しては、誰に言われるでもなくこなすようになっていた。
もともと、思考能力の容量が多い以外に特別な能力があるわけでもないアレクサンドリートだが、主の傍仕えとして働くためにいろいろと覚えた知識はあったので、そういった仕事はさしたる苦もなくこなすことができた。
もしかしたら、いつか自らから解き放つ時のことまで考えて、主はいろいろな経験を積ませてくれていたのかもしれない、といつからか考えるようになった。
そういう思考の変化が、多分自我を持つということなのだろう。この船に来るまで、主の意を汲もうとすることはあったが、主の意を理解しようとする事はついぞなかった、とアレクサンドリートは自嘲気味に思った。

……ベルンシュタインに請って解放(リベレイト)されることを選び、人間に遥かに近づいた時、アレクサンドリートが最初に覚えた感情が落胆だったのは確かなのだ。
自我を得ることができれば、自分は人間と同じようになれるとどこかで考えていたし、そうなれば自分に投げかけられた問いの答えも自然に出るものなのだと、なんとなく考えていた。
しかし、やはり自我を持った機械は、人間ではない。
多少の感覚の変化はあれど、人間がなぜ様々なものを想い、悲劇を生む戦争を繰り返し、自らが生み出した機械種を迫害するのか――そういう、いままでよくわからなかった人間の感覚に拠るであろう事象の数々に対する明確な答えは、依然として不明瞭のままだった。
人間でない機械は、人間を理解することなどできないのかもしれない。

……だとしたら、自分のこれまでやってきたことは、なんなのだろうか。
自分を生み出した研究者達は、自分を軽蔑するだろうか?
自分を包み込むようにして慈しんでくれた主は、自分に落胆するだろうか?

嫌だ、と思った。自我を得なければ、わからなかった感情だ。
彼らにだけは、自分を嫌いにならないで欲しい。彼らに“お前など必要ない”と言われてしまったら、自分は――。
理解できない衝動に襲われ、他のアンドロイドなどより遥かに高性能なはずの思考域に、見た事ものないような莫大な、そして出所不明のパルスが駆け巡るのを感じた。

こんなに悲しいなら、自我なんて――――。

処理できないデータを膨大に抱えてその場で崩れ落ちた後、アレクサンドリートは意識を失った。
自分のコアメタルに触れたベルンシュタインの冷たい手の感覚。
それが、人間と機械の間にある、埋め得られない溝なのかもしれない。意識が暗水に沈む刹那、そんな事を考えたような気がした。

諦めるのはまだ早い、とベルンシュタインに言われたのは、寝台の上だった。
倒れた自分をわざわざ介抱し、港に泊まっていた自らの大型船にわざわざ運びいれてくれたのだという。

「あんたの目的は、俺の目的とは少し違う。だが、もしかしたら、それはこの宇宙中の機械種にとって、新しい世界を切り開く鍵になるかもしれない。俺たちの解放(リベレイト)が正しいのか、その本当のところを、あんたは確かめてくれないか。機械種と人間の共存なんて、できるかどうか俺には解らん。でも――」

……理想もなく宇宙を彷徨うのが俺たちの目的だなんて、寂しいだろう。

そういって苦く笑ったベルンシュタインに自分が向けたのは、酷く間の抜けた表情だっただろうと、今にして思う。

手紙を書いてみようか、と思ったことが一度だけあった。
主は、確かに変化した自分の姿を未だ目にしてはいない。きっと喜んでくれるだろう、と今ならばわかる。
結局ペン取ってみたものの、何も書けずに諦めてしまった。
心というものに変化があったことを、文字の羅列として人に伝えるのはとても難儀なことだと学んだ。

観察は続いている。自我を得る前より、問いの深淵は暗くなるばかりだった。
かつての自分を愚かしく思う。
自我を得れば、全ての答えが得られると、滑稽なまでに無垢に信じていたかつての自分。

今ならば、過去の自分を憐れむことすらできる。
しかし、人間を理解し、己の望みを理解することは、まだできそうもない。


人間は、ひとくさの葦である、と旧世代の書物はアレクサンドリートに伝えた。
ひとくさの、考える葦。
思考する葦。
思考に、人間の尊厳は宿る。

思考を得た機械種にも、彼らの如く尊厳は宿るだろうか?



…………

夜の海。遥か深奥に、渦を巻いた闇が夜の海のように踊っている。
あまりにも頼りない板切れのような船で、不安げにたゆたう自分。
波はうねり、容赦なく船に叩きつけられていた。

海ではない。それは星の海だ。

思考の宇宙、その深奥への旅。
ひとりだけの、孤独な旅だと思えた。
辛く、悲しい旅。
しかし、自分はこの宇宙に漕ぎ出す事を選んだ。

かつて主と話した、彼の夢の中。そこもきっと、こういう宇宙だったのだろう。

“彼の見た夢の鯨は何色をしていたろうか?”

夢の中に確かめに行く術が、今ならばあるのだ。
それは、かつての自分がなにより欲しかったものだったはずなのだ。

アレクサンドリート――イデアルは、閉じていた目を開けた。
生命と、非生命に、いつかくるかもしれない融和の日。
人間ではない自分が、それでも望むべきもの。
そういったものを追い続ける日々の先に、何かしらの変革が、もしあるのであれば。

自分の出した答えを、主に、そして自分を生み出した彼らに伝えることができるものであるのかもしれない。
そうアレクサンドリートは、静かに思考した。



<了>